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コラム一覧
日本の葬儀の歴史⑩~江戸時代~

現在、日本の葬儀は9割以上が仏式で行われていますが、その風習は江戸時代から始まりました。 火葬も徐々に広がりを見せ、江戸時代初期には火葬は一般的ではないものでしたが、江戸時代の後期になると、火葬率は50%まで広がっています。 火葬は、武士階級の間では、「穢れた煙」の発生源とされ、避けられていたが、庶民の間ではそれほどタブーではなかったため、火葬率が上がったと言われています。 また、落語の演目の中には、庶民の葬送風習が活写された作品も多く、火葬が馴染みつつあるのが分かります。 その中でも大阪では火葬率は90%を越えていたそうで、道頓堀墓所などのいくつかの墓所は火葬専門の墓所として知られていたそうですよ。

日本の葬儀の歴史⑨~室町時代~

室町時代は、応仁の乱以降、寺院の境内に墓地を作ることが増えてきました。京中の寺院での埋葬は相変わらず禁止されています。しかし、それ以外の阿弥陀寺や知恩寺などでは、特例として境内での土葬が許可されたそうです。 境内での埋葬は、住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立てて追善供養を受けたい」という願いを叶えるための物でした。これが、現在の寺院墓地の始まりです。 その願いを叶える形で、寺院の数もたくさん増えたそうです。 また、本格的な葬儀が行われ出したこともあり、この時代には位牌も伝来しています。 この時代には、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が普及し始めています。 室町時代は、戦乱の時代です。そんな、死の不安と隣り合わせの生活の中で、仏教は心の救いとして、大きく普及していきます。

【岡山市の火葬場】岡山市岡山北斎場 星空の郷

岡山市北区富吉2707番地8にある火葬場です。 火葬だけではなくこちらの斎場では葬儀を執り行う施設も整っています。 収骨までは各ご当家ごとに待合室でが用意されています。 ----------------------- 岡山の葬儀・家族葬は家族葬のファイングへ 岡山北斎場 星空の郷でのご葬儀も対応しています。 【家族葬のファイング】 〒700-0044 岡山県岡山市北区三門西町3-17 TEL:086-254-5590 (フリーダイヤル:0120-594-058)

日本の葬儀の歴史⑦~平安時代~

平安時代の特権階級のお墓は、奈良時代から大きく変わらず、どれだけ力を持つ天皇や貴族であっても京の内部に作られることはありませんでした。 平安時代は遣唐使が廃止されたことで、仏教が日本独自の発展を見せていました。そのため、日本人の死生観を大きく変える転機の時代であったとされています。 特権階級の間では、火葬した骨や遺髪を高野山に納める「高野納骨」が流行りました。 1085年に崩御した性信法親王は遺骨を高野山に納めたそうです。また、1108年に堀河天皇は遺髪を納めたそうですよ。 平安時代は、仏教の教えにて、悟りを開くものがいない時期を意味する「末法」だといわれていたそうで、天皇や貴族などの特権階級は、弥勒の浄土である高野山への納骨を強く臨んでいたそうです。

日本の葬儀の歴史⑧~鎌倉時代~

鎌倉時代は、浄土宗や浄土真宗など、鎌倉仏教が広く普及しました。その結果、火葬を行う方も増えてきました。 また、鎌倉仏教の不況により、仏教の死生観が一般に広まり、本格的な葬儀が一般の方の間でも行われるようになりました。庶民の間では、葬式互助会のようなものも組織され、集落の共有施設として、自力で火葬場が設営された村もありました。 また、僧侶によるボランティア火葬も行われていたこともあり、火葬が広まったそうです。 しかし、火葬が行われるようになったからと言って、火葬場がたくさんあるわけではありません。また、火葬技術も未発達であったため、遺体を完全焼却することが難しい時代でもありました。 そのため、土葬と火葬の両墓制が長く続くこととなります。

日本の葬儀の歴史⑥~奈良時代~

奈良時代になると、特権階級のお墓を作る場所に強く制限がかかるようになります。首都の内部には作ってはいけないルールが施行されたため、平城京内部に当時の墓は一つも見つかっていません。 一方、庶民のお墓は飛鳥時代から大きく変わらず、一定のエリアが決められ、その中に埋葬するルールが決まっていました。 また、「梧庵漫記」という記録には、京の周辺の山野や瓦が庶民の埋葬場所だったと、記録が残っており、平城京南方の川後の発掘調査で、ムシロにくるまれた人骨が見つかっています。 また、奈良時代には、古墳時代の墓地を再利用した例もあるそうです。奈良県葛城市の三ツ塚古墳群で、奈良時代の火葬墓や、古墳の石室を再利用したお墓が見つかっています。

海洋散骨について

家族葬のファイングでは海洋散骨のご相談も承っております。 「お墓は建てずに自然に還してあげたい」「諸事情でお墓を建てることは出来ないが供養してあげたい」という理由から海洋散骨を選択される方もいらっしゃいます。 興味があればお気軽にご相談下さいませ。 ----------------------- 岡山の葬儀・家族葬は家族葬のファイングへ 岡山北斎場 星空の郷でのご葬儀も対応しています。 【家族葬のファイング】 〒700-0044 岡山県岡山市北区三門西町3-17 TEL:086-254-5590 (フリーダイヤル:0120-594-058)

日本の葬儀の歴史⑤~初めての火葬~

日本で初めての火葬は、飛鳥時代の700年に行われたそうです。 僧の道昭という方が火葬されたそうで、その2年後の702年には持統天皇が火葬によって埋葬されています。 しかし、古墳時代の遺跡野中に遺体埋葬後の石室を焼却した「かまど塚」が見つかったことから、飛鳥時代よりも前から火葬が行われていたのでは?とも言われています。 日本の火葬は、仏教の伝来で始まったとされています。また、仏教の開祖であるブッダが火葬されたことも大きな影響を与え、日本国内で仏教が広まるにつれ、火葬も普及したとされています。 しかし、火葬自体を知っている方はかなり少なく、特権階級の間でのみ行われていたそうです。 その後、江戸時代後期から明治時代の初期に火葬という文化が日本の主流となっていきます。

日本の葬儀の歴史④~飛鳥時代~

飛鳥時代の初期は、古墳時代の末期と年代が被っており、飛鳥時代に入っても古墳は作られていました。616年には、かの聖徳太子も自分の古墳を建てたそうです。 しかし、646年に「薄葬令」が出され、古墳の大きさや、建造にかけられる期間、人員など細かく制定されるようになり、古墳時代初期にたくさん作られた、大型の古墳は作られなくなりました。 また、701年には、「大宝律令」が施行され、三位以上の身分を持つもののみ古墳の作成が許され、古墳の勢いは落ち着いていきます。 このころになると、庶民の埋葬方法に対しても規定が作られています。 庶民は一定の範囲を葬所として取り決めを行い、その場所を利用して埋葬するように決めました。それまでは、自由な場所に埋葬していたので、ここで墓地の原型が誕生します。

万成病院様にてグリーフーセミナーを開催しました。

2023年9月21日 弊社の川上恵美子が岡山市北区の万成病院様にお招きいただき、『幸せな看取りは看護力とチーム力』という題材でグリーフについてお話させて頂きました。 約60名もの職員様が参加され、講演の内容もご好評のようでした。 活動を続けていくなかで、皆様からのお声が大変励みになっています。 講演の機会を設けてくださった万成病院様、ご参加いただいた職員の皆様、貴重なお時間有難うございました。 ----------------------- 岡山の葬儀・家族葬は家族葬のファイングへ 【家族葬のファイング】 〒700-0044 岡山県岡山市北区三門西町3-17 TEL:086-254-5590 (フリーダイヤル:0120-594-058)

日本の葬儀の歴史③~古墳時代~

古墳時代の特徴は、何といっても支配階級の埋葬方法が大きく変わったことです。 「古墳時代」の名前の由来にもなっている、古墳が全国各地に広がりを見せます。 古墳時代の中でも、前半は前方後円墳が多く登場しました。 大阪の大仙古墳は、仁徳天皇を祀る大きな前方後円墳で、その代名詞とも言えます。また、日本で一番大きな墳墓でエジプトのピラミッド、中国の始皇帝陵とともに世界三大墳に数えられています。 前方後円墳は、たった一人の豪族を埋葬するために作られ、内部には多くの装飾品が一緒に埋葬されています。銅鏡など、小学生時代に一度は、教科書で見かけたのではないでしょうか? しかし、その一方で、庶民に埋葬方法は弥生時代から大きく変わっていません。

日本の葬儀の歴史②~弥生時代~

日本の葬儀の歴史。 第二回の今回は、弥生時代の葬儀について触れていきます。 前回の縄文時代では、身体を折り曲げて埋葬される、屈葬が行われていることをご紹介しました。 弥生時代になると、屈葬は終わりを迎え、今度は伸展葬と呼ばれる方法が行われます。 伸展葬は言葉のとおり、身体を伸ばして埋葬する方法で、屈葬とは正判定の埋葬方法です。 実は、縄文時代でも伸展葬は存在しましたが、一部の特権階級にのみ許されていました。 弥生時代では、庶民の間でも伸展葬が一般化しました。 伸展葬が広まった理由はいくつか考えられています。身体をまげて埋葬する時間的余裕が無くなったことや、死者が蘇らないと広まったためだとも言われています。 弥生時代になると、「墓」が作られるようになったそうです。稲作が普及し、一般の人が定住するようになったからだとされています。